歴史・庭園

歴史

歴史

浮月楼はご維新後の静岡の街とともに歴史を刻んでまいりました。
慶喜さまのお屋敷として20年、そして静岡の迎賓館として120年。
その歳月は庭や建物のあちこちに結晶して、訪れられた方々に古い昔の出来事を語りかけてきます。

最後の将軍 徳川慶喜公

前将軍・徳川慶喜公は大政奉還後の明治二年、元の代官屋敷に手を入れて現在の浮月楼の庭をお作りになり、二十年にわたってお住まいになりました。政治は一切遠ざけて趣味に没頭し、静岡の市民たちから「慶喜様」(けいきさま)と親しまれました。幕末の激動期、毀誉褒貶(きよほうへん ※1)はありましたが、私どもは日本の近代に道を開いた英明で素晴らしい君主だったと感じております。静岡の街にも浮月楼にも、人間としての温かみを感じさせる、歴史書には載らないエピソードが残されています。

※1 ほめること・けなすこと。様々な評判

慶喜公時代の浮月楼

慶喜公時代の浮月楼

慶喜様がお住まいになっていた頃の浮月楼の庭です。
慶喜様は時には梅の香りを楽しみ、暖かい頃には池に舟を浮べて
ゆっくりと過ぎていく時間を楽しまれました。

自適の日々

自適の日々

浮月楼に住まわれていた当時の慶喜公の狩猟姿です。
公は趣味の中でもとりわけ狩猟を好まれ、鷹を使った狩、鉄砲を使った狩猟に夢中になりました。
静岡市内の川や沼で鴨を追い、猪の姿を求めて近郊から遠くは伊豆の天城山にまで
足を伸ばしたということです。

自由闊達

前将軍の権威からは想像もつかないほど慶喜様は自由闊達、新しい時代への好奇心も旺盛でした。
最先端の乗り物・自転車を乗りまわしたことは有名です。
日本国内に数台しかなかった当時の自転車は前輪が大きく、極めて乗り難かったといいます。
浮月楼の北側に流れていた小川に自転車の慶喜様が落ちた、という古老の話も今に伝わっています。

波乱の人生

波乱の人生

浮月楼は開業翌年の明治25年、そして昭和15年の静岡大火、
昭和20年の戦災と3回にわたり火災に遭い、その都度復興してきました。
池と庭園はほぼ昔のままですが、灯篭のいくつかは火災により火にさらされた跡が残っています。
ここでは、明治から昭和にかけて元勲の方々に愛され、多くの文人が遊んだかつての浮月楼の姿をご紹介します。

いにしえの日々

浮月楼の庭の南の高台から池を見下ろす子福稲荷。傍らの石碑に享保十八年の文字が見え、江戸時代、当地が代官屋敷であった頃からの歴史を伝えています。かつては縁日に庭を開放し、一般市民も参拝したといいます。この地に移り住んだ慶喜公はこの稲荷に義公(水戸光圀公)を合わせて祀ったといわれています。

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明治期の浮月楼

当時発行された
浮月楼絵葉書より

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昭和10年代の浮月楼

一階待合室(ロビー)写真

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明治から大正とみられる浮月楼写真

庭の三方に建物が建ち、池と自然を楽しむ客で賑わった。

浮月楼を愛した方々

明治以来、多くの方々が浮月楼をご贔屓下さいました。西園寺公望公、井上馨公、田中光顕伯、黒田清輝画伯…。最近では岸信介様、池田勇人様もご逗留下さいました。ここではとりわけ私どもに思い出深い方々をご紹介致します。

風薫る時 伊藤博文公

薫風閣

伊藤博文公

明治三十三年、庚子の年。初代総理大臣・伊藤博文公は静岡を訪れられ、浮月楼に逗留されました。時代はまさに風雲急を告げるころ。博文卿は創立間もない立憲政友会のその後の策を練るかたわら、政界の重鎮と会談を重ねられました。季節はおりしも風かおる五月。若葉が美しく萌える浮月の庭に深く感じられた博文卿は、一間に余る和紙を番頭に命じて取り寄せると、太筆にたっぷりと墨をふくませ「薫風閣」の三文字を一気呵成に書き上げられました。ロビーに飾られた額は、緑をわたる風の息吹と博文公の想いを今に伝えております。

名建築家 吉田五十八

建物イメージ

吉田五十八

日本の近代数寄屋建築を代表する名建築家・吉田五十八(いそや)様。外国建築の模倣が盛んな時代に、日本の伝統的な建築の素晴らしさを改めて世に知らせ、現在も「吉田五十八賞」にその名を残しているこの名建築家も浮月楼を愛してくださいました。大正から昭和にかけて足しげくおみえになった吉田様と絶世の美しさで知られた芸者・八重千代の逸話も残っています。吉田様はそののち、浮月楼の新しい建物の設計も引き受けてくださいましたが、残念ながら戦災で焼失し、現在の建物はその設計方針を生かして戦後間もなく建て直したものです。

橋を行く若き女 ヴァインガルトナー博士

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ヴァインガルトナー博士

昭和十二年六月、静岡市の演奏会で指揮をなさった名指揮者・ヴァインガルトナー博士は浮月楼の歓迎会に臨まれ、庭の橋を行く浴衣姿の若い女性に想を得て、ピアノ曲「橋を行く若き女—日本の小描写曲」を作られました。博士は20世紀前半を代表する指揮者。ブラームス、リストに師事し、バーゼル音楽院長などを務めました。曲は42小節の小品でファンタジックな旋律に異国情緒があふれています。古き良き時代の日本には美しくゆったりとした時間が流れていたのかと感慨を抱かせます。

“橋を行く若き女”を視聴できます。

歴史の足跡

子福稲荷

子福稲荷

浮月楼の庭の南の高台から池を見下ろす子福稲荷。
傍らの石碑に享保十八年の文字が見え、江戸時代、当地が代官屋敷であった頃からの歴史を伝えています。
かつては縁日に庭を開放し、一般市民も参拝したといいます。
この地に移り住んだ慶喜公はこの稲荷に義公(水戸光圀公)を合わせて祀ったといわれています。

庭の一隅に

石碑

浮月楼にまつわる漢詩を刻んだ石碑が明治の昔より木々の間にたたずんでいます。
古き池に月浮かび月光明らかなり
映え出ずる銀波(ぎんぱ)樹影清らか
此の地慶公遊息(ゆうそく)の所
一枝も折る無かれ士人の情
と秋月種樹の詩が庭への想いを伝えています。

菊の御紋

菊の御紋

せせらぎの傍らにゆったりと立つ灯篭に菊の御紋章が目を引きます。
徳川の葵ではなく宮家を示す菊の御紋章が刻まれているのは、
小松宮彰仁親王様より頂戴したものとの説もあります。