浮月楼の歴史と変遷について振り返ります。
染物師の町である紺屋町の代官屋敷時代(慶長時代~)、渋沢栄一翁の商法会所時代(明治二年)、徳川慶喜公屋敷跡時代(明治二年~明治二十一年)を経て、明治二十四年に浮月亭(後の浮月楼)が開業。現在の浮月楼に至ります。
前将軍・徳川慶喜公は大政奉還後の明治二年、元の代官屋敷に手を入れて現在の浮月楼の庭をお作りになり、約二十年にわたってお住まいになりました。政治は一切遠ざけて趣味に没頭し、静岡の市民たちから「慶喜様」(けいきさま)と親しまれました。幕末の激動期はありましたが、私どもは日本の近代に道を開いた英明で素晴らしい君主だったと感じております。静岡の街にも浮月楼にも、人間としての温かみを感じさせる、歴史書には載らないエピソードが残されています。※出典写真
徳川慶喜(衣冠) 茨城県立歴史館蔵
浮月楼に住まわれていた当時の慶喜公の狩猟姿です。公は趣味の中でもとりわけ狩猟を好まれ、鷹を使った狩鉄砲を使った狩猟に夢中になりました。
静岡市内の川や沼で鴨を追い、猪の姿を求めて近郊から遠くは伊豆の天城山にまで足を伸ばしたそうです。
※出典写真
徳川慶喜肖像 松戸市戸定歴史館蔵
慶喜公は、油絵や写真といった文化的な趣味にも没頭していました。当時の写真撮影の師でもあった徳田孝吉の指導の元、構図を考えた上で撮影を行っており、当時の静岡の様子を慶喜公の目を通してうかがうことができます。
※出典写真 安倍川鉄橋上リ列車進行中之図
徳川慶喜撮影 茨城県立歴史館蔵
江戸幕府第十五代将軍 德川慶喜の時代から公爵德川慶喜家へ
そして現代へと代々続いたお米にかける思い、またその想いを農家が受け継ぎ一粒一粒を大切に育ててきたお米。
時代を超えて「将軍米」が生まれました。
詳細はこちらより
※出典写真 古写真 紺屋町邸徳田孝吉撮影 茨城県立歴史館蔵
慶喜公は、江戸時代中期から続く日本の名作庭師、小川治兵衛を呼び寄せ、当時の庭園を築き上げたとのことです。慶喜公時代の浮月楼の敷地は現在の二二〇〇坪に比べ、倍近くの約四五〇〇坪以上あったようで、敷地の半分以上が庭であり、大きな池と小さな池があったようです。小川治兵衛は、現在の池泉回遊式庭園である浮月楼庭園の礎を築きあげました。 ※出典写真 古写真 紺屋町邸 徳田孝吉撮影 茨城県立歴史館蔵
日本の近代数寄屋建築を代表する名建築家・吉田五十八(いそや)。(建築作品例:岸信介邸、在米日本国大使邸等)外国建築の模倣が盛んな時代に、日本の伝統的な建築の素晴らしさを改めて世に知らせ、「吉田五十八賞」にその名を残しているこの名建築家も浮月楼にて昭和時代に建築に携わっています。過去に二度、建築に携わっていただきましたが、残念ながら静岡大火、及び戦災で焼失し、現在の明輝館(料亭)は、その設計方針を生かして建て直したものです。(建築:伴野三千良 昭和二十五年)※出典写真 吉田五十八 肖像 東京芸術大学美術館蔵